・鴻上尚史『朝日のような夕日をつれて』弓立社

駅前で十時に待ち合わせね」
と言ったのに十時半になっても相手が来ない。携帯電話を家に忘れてきたから連絡もできない。十一時になった。でも来ない。
あなたはそんなとき、その場所に居続けられますか。立ち続けられますか。いや、座り続けてもいいけどそこに居られますか。

ひとつの場所に立ち続けるというのは、単純ですがとても難しいことです。
ベケットの『ゴドーを待ちながら』では二人の男がゴドーという何者か解らない人間をただ待ち続けます。今日も明日も明後日も、永遠に待ち続けるのではないかという感じで待ち続けます。
「ゴドーは来ないよ」と言われても、恐らく待ち続けるのでしょう。何で待ち続けるのか解らないまま、待ち続けるでしょう。

それを、ある人は「惰性だ」と言うかもしれないしある人は「決意だ」と言うかもしれません。
ひとつの答えが、『朝日のような夕日をつれて』にあります。


男五人がただ立ち続け、「僕は立ち続ける」と言うところから物語は始まります。
そこから時間と空間を越えた寸劇の繰り返しが始まり、続き、最後にまた「僕は立ち続ける」と言って舞台の幕は閉じます。

高校時代にこの戯曲を読んだとき、俺にはその意図するところが全く解りませんでした。感動もありませんでした。いい戯曲だという印象もありませんでした。


今は、とてつもない共感と決意を感じます。




あのころの俺には、立ち続けることの難しさも、そうしたい理由もありませんでした。
ですが今はこの場所に立ち続けたいという強い想いがあります。

人は変わってゆきます。
生きているだけで、世の中の流れに従って生きているだけなのに変わってゆきます。

希望に満ちて未来を語っていた人間が、数年後、平気な顔で諦めを口にします。
一人の恋人に対して愛を語っていた人間が、当たり前のように浮気をします。

ストレスが、葛藤が、色々なものが人を変えます。
世の中には情報が、軋轢が多過ぎる。だから、誰も彼もそのままではいられません。


だからこそ、俺は、俺が好きな俺のままで。あのとき確かに俺の大切な人たちが好きでいた俺のままでいたいと思います。
表層的な部分は変わる。それは止めようがない。でも根元的な部分は俺でありたいのです。この場所で、退くこともなく、進むこともなく、ただ、立ち続けたいのです。




あともう一つ。
「届かなかった過去」をこの戯曲は語っています。

自分の力が、意志が、何かが足りずに何かが敵わなかった経験がありますか。
ひとつ何かを間違ったところで、何かを失ったり、駄目にしてしまった経験がありますか。

だとしたら、もう一度、人生の中で同じような場面に遭遇したとき、あなたはどうしますか。
俺は越えたい。今度こそその場面でくずおれるのではなく立ち続けたい。俺のままでいたい。


立ち続けることはかくも複雑で難しく、ただし行為そのものはシンプルです。

あなたが絶望を知っていて、まだ心の隅に少しでも立ち続けたいという思いを持っているのなら『朝日のような夕日をつれて』に触れてみて下さい。
できれば戯曲ではなく、芝居で。最低ビデオ(DVD)でもいいです。

俺は立ち続けます。
世界に他にもまだ立ち続けたい人がいる限り、立ち続けられると思うのです。

2006.8.19(土)記