・梨木香歩『西の魔女が死んだ』新潮文庫

児童文学ですが、児童文学がなんたるかを知らないまま「児童の読むものだろ」と断ずるのは愚かしいと言わざるを得ません。
俺の勝手な考えですが、児童文学には

「子どもの理解できるレベルの平易さで書かれた内容の作品」
「子どもでも、もしくは子どもこそ理解できる内容の作品」

という二種類があって、前者は確かに様々な意味で子ども向けなのですが(文学としての価値とは関係ありません)、後者は子どもから大人まで読んで何かしらを感じられるものです。
かえって子どもが理解できるような純粋な感情の奔流などは、子どもでなくなった人こそ読んで意味のあるものなのかもしれません。


というわけで『西の魔女が死んだ』です。

登校拒否児童が山奥で祖母と過ごす一夏のなんでもない経験。
言葉にしてしまえばそれだけですが、味付けはひどく不思議な感じがします。

登校拒否児童、と書きましたが「登校拒否はいけない」とか「学校へ行こう」とか教訓めいたことをこの物語は何も言いません。
ただ、少女と老女の心の交わりをゆっくりと丁寧に描いているだけです。
その有様が読んでいるうちに溶け込み、要所要所にある祖母の言葉が染み渡り、ラストに向かいます。




少し客観的な目で言うと、この物語はモラトリアムを描いたものだと思います。
社会的に言えば学生時代がモラトリアムで、その時代が終われば社会人として世の中に出ることになります。

ただ、学校が辛い人間にとっては学生時代がモラトリアムになりません。
少女にとっては祖母の元がモラトリアムで、学校が「現実」です。


何故こんなことを書くかというと、俺にも思い当たる経験があるからです。
登校拒否はしていませんが、幼いころ夏休みの半分は親の実家、山奥の田舎で過ごしていました。普段の生活から離れた、必要最低限のものだけに触れて営む暮らしは、普段からそうしている人にとってはともかく、たまに触れる人間にとってはとてもとても愛しいものでした。

それは「現実」に戻ってからも薄れることはなく、だからたまに田舎というモラトリアムに戻ってきたときに、子どもでなくなった今でもなにがしかの感傷を得るのです。




そういったこともあり、ラストの展開には酷く同調することができました。
その一言が、どうしても欲しかった。聞こえるか。聞こえるだろう。聞こえてほしい。

聞こえた。

気付けば心が動き、涙が流れていました。
感受性が鈍くなっていることを自覚していて、でもそれを憂う人にはおすすめです。





さて、ラストはラストでいいのですが、俺にはもう一つ、格別心に触れた部分がありました。
祖母が少女に語った「意志の力を後から強くできるものなのか」という部分。

生まれつき意志の力が弱くても、変われる。
最初は何も変わらないように思えて、止めたくなって、それでも続けて、もうずっと何も変わらないんじゃないかと思うころ、当たり前のように以前と違う自分を見つける。

この言葉に俺は救われた気がしました。
そうだよな、そうであってほしい。俺は証明したい。誰か証明してくれ。
幾つになっても、己の意志の弱さを諦めてほしくない、諦めたくないと強く思います。

2006.8.19(土)記